人材を「費用」から「資本」へ。人的資本情報の開示潮流と退職給付制度がB/Sに与える潜在的影響

「優秀な人材が定着しない」「人件費の高騰で利益が圧迫されている」――。これらは多くの中小企業が直面する課題ですが、財務的な視点では『人的資本』に対する投資とその負債化リスクが正しく認識されていないことに本質的な問題があります。特に、将来の支払義務である退職給付債務は、B/S(貸借対照表)に見えない負債として蓄積され、ある日突然、キャッシュフローを脅かす要因となり得ます。本記事では、人的資本経営の定量化と、財務健全性を維持するための労務・財務の統合管理について解説します。

目次

  1. 人的資本経営の再定義:P/L上の「人件費」をB/S上の「資産」に変える
  2. データで見る、日本の中小企業における人手不足感と労働生産性の相関
  3. 退職給付債務(DBO)のリスク管理:中小会計指針が求める簡便法の限界
  4. DBからDCへの移行:退職金制度の再設計による財務リスクの切り離し
  5. まとめ:次世代への承継を見据えた「負債の整理」と「人の投資」

人的資本経営の再定義:P/L上の「人件費」をB/S上の「資産」に変える

人的資本経営とは、人材を「消費されるリソース(費用)」ではなく、「価値を創造する資本(投資)」として捉え、その価値を最大限に引き出す経営手法です。上場企業を中心に開示が義務化されたこの流れは、今や中小企業における金融機関の融資判断や、M&A時の事業評価にも波及しています。財務諸表上の「教育訓練費」や「福利厚生費」が、将来どのような収益向上(労働生産性の改善)をもたらすのか。この因果関係を数値化し、説明できる能力が、これからの経営者には求められています。

データで見る、日本の中小企業における人手不足感と労働生産性の相関

深刻化する人手不足の中で、人材への投資がどのように企業の競争力に結びついているのか、公的な統計から現状を分析します。

(出典:中小企業庁『2024年版 中小企業白書』、厚生労働省『労働経済の分析』)
最新の調査によると、中小企業の約7割が「欠員が生じている」と回答しており、人材確保は経営上の最大懸念となっています。一方で、従業員一人あたりの教育訓練費を増加させている企業は、そうでない企業と比較して、5年後の労働生産性が平均で約12%高いというデータが示されています。また、離職率を1ポイント低下させることで、採用・教育に伴う埋没コストが年間数百万円規模で削減される試算もあり、人的資本への投資は、長期的には販管費の抑制と利益率の向上に直接的に寄与することが証明されています。

退職給付債務(DBO)のリスク管理:中小会計指針が求める簡便法の限界

人材戦略の陰で、多くの経営者が見落としがちなのが「退職金」という長期負債の管理です。

公認会計士・税理士からの視点

多くの中小企業が採用している「自己都合退職金要支給額」による簡便法は、あくまで「今全員が辞めたら」という仮定の数字であり、将来の昇給や割引率を考慮した真の債務額(原則法)とは解離が生じます。特にベテラン社員が多い企業では、実際の支払義務はB/S上の引当金を大幅に上回っていることが珍しくありません。この「隠れた負債」を放置することは、将来の資金繰りを破綻させる時限爆弾を抱えることと同義です。

DBからDCへの移行:退職金制度の再設計による財務リスクの切り離し

不確実な未来の負債をコントロールするためには、退職金制度そのものの再設計(制度移行)を検討すべきです。

確定拠出年金(iDeCo/企業型DC)の戦略的活用

従来の確定給付型(DB)は、将来の支払額を会社が保証するため、運用リスクや積立不足のリスクをすべて会社が負います。これに対し、確定拠出型(DC)は毎月の掛金拠出で会社の義務が完結するため、B/Sに負債が残りません。これは財務の健全性を高めるだけでなく、従業員にとっても「ポータビリティ(持ち運び)」が確保されるため、現代の多様なキャリア形成に合致した人材定着策となります。財務リスクの「オフバランス化」と「福利厚生の充実」を同時に達成する、高度な経営判断が求められます。

まとめ:次世代への承継を見据えた「負債の整理」と「人の投資」

人的資本経営の本質は、人を大切にすることと、人に付随する財務リスクを冷徹に管理することの両立にあります。退職給付債務という目に見えにくい負債を整理し、制度を現代化することは、事業承継やM&Aを円滑に進めるための必須条件です。また、そうして整えた財務基盤の上に、データに基づいた人材投資を積み重ねていく。数字に基づいた「人の評価」と「負債の管理」ができている企業こそが、人材獲得競争に勝ち残り、持続的な企業価値の向上を実現できます。まずは、自社の退職金規定に基づき、今後10年間に発生する「予想支払キャッシュフロー」を算出することから始めてください。そこに、貴社の未来の財務バランスが見えてくるはずです。

北島 征爾(きたじま せいや)

公認会計士(第32953号)・税理士(第147219号)
住友電気工業株式会社、有限責任監査法人トーマツを経て、2021年にモノリス会計事務所を開業。日本公認会計士協会 兵庫会・近畿税理士会所属。

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